海上自衛隊の所在地紹介 ~その0 海軍教育の聖地・江田島~

 

広島県江田島市

昔は江田島町でしたが、平成の大合併で周辺自治体を吸収し、江田島市となりました。江田島町は海上自衛隊の第1術科学校、幹部候補生学校、海上自衛隊生徒部(高校生、現在は廃止)が集積され、年中1000名を超える学生が在籍し、町にお金を落とし、施設があることによる多額の助成金もあり、江田島町は潤っていて、敢えて合併する理由はなかったと聞きました。しかし過疎に苦しむ周辺自治体の要望により合併したようです。その際の自治体名も江田島町は元々合併しなくてもよかったわけですから、合併後の自治体名が江田島市にならないなら合併はしないというカードをちらつかせ、周辺自治体も渋々納得し、江田島市の誕生になったようです(あくまで噂)。

 

 

幹部候補生学校

海軍教育の聖地

旧海軍時代には、帝国海軍兵学校がいくつかの理由により江田島に建設されました、江田島は元々鎮守府の建設予定地でしたが、江田島湾に入る瀬戸があまりに狭いため閉塞されたら使い物にならないため、対岸の呉に鎮守府が設立され、江田島には兵学校が建設されました。(現に旅順で日本海軍は旅順港の閉塞作戦を決行した)(江田島湾は艦乗りは江田内(えだうち)と言います)

 

海軍兵学校は非常に狭き門の学校であり、当時の東京大学と同程度の水準でもあり、戦中には敵性言語(英語)の禁止後も英語教育の実施を許されるほどのエリート学校でした。ま、卒業後は皆、軍人に任官するわけでしたが..。またその学校の規模、教育内容などから、英国海軍のダートマス、米海軍のアナポリスと並び世界三大兵学校と呼ばれました。(ま、当時の海軍の規模は米、英、日が世界のトップ3ですから当たり前と言えば当たり前ですね)

 

敗戦後、海上自衛隊が創設されたときには跡地はそのまま海自の幹部候補生学校と、航海系攻撃系の学生が学ぶ第一術科学校、中学卒業後に入隊する海自生徒部(既に廃止)が施設を引き継ぎ使用しています。

第一術科学校

※江田島のメインゲートは島の大きな通り沿いにありますが、実はそれは正門ではありません。ぱっと見は規模からしても正門ですが正門ではありません。本当の正門は実は海側になります!! 兵学校、幹部候補生が修業後に道路に面した門から旅立たずに江田内(江田島湾)に投錨した練習艦に乗り込みそのまま遠洋航海に出ていたため、正門は海側とされたようです。

 

 

 

また航海術、艦砲射撃のシュミレーター教育装置などもあり、3分隊の機関科員や、4分隊の補給科庶務科の人間は第2術科学校(横須賀)、4術校(舞鶴)に行くので学生としては来ませんが、訓練装置を使用した訓練のためなどで江田内によく錨泊するので護衛艦に勤務しているならば一生に一度は必ず訪れる所でもあります。

戦艦陸奥の主砲

 

第一術科学校に入校

所長は平成時代に海士射管課程に入校しました。期別を書くと人物が特定されてしまうので伏せます。射管課程は普通科で一番長い期間入校します(約半年)。2月に行き8月に修業しました。その間の学校行事は盛りだくさんです。ハンドボール競技に、宮島の弥山登山競技、そして江田島伝統の遠泳です。遠泳はなんと江田内を8時間にわたり泳ぐというものです。ご飯は教官の乗るボートにしがみつき食べます。

遠泳の様子

 

ただし所長たちは運のいいことに遠泳の翌々日に修業だったため、赴任準備やら何やらで遠泳の参加は免除されました。しかし遠泳がある一月前から訓練が始まるので普段の練習や立て付けには参加させられ、立て付けではその半分の4時間近くは結局泳がされました。

 

運のいい人は遠泳がない時期に入校、修業しますが、運の悪い人は海士課程でも泳ぎ、海曹課程でも泳ぎ、幹部候補生課程でも泳ぎ、一生で3回も泳ぐ人も稀にいるようです。生徒部出身の古手の人なら下手すると4回泳いだ人もいるかもしれませんね!?

 

第一術科学校には、射撃、魚雷、水測、射管、掃海などの攻撃系航海、通信、電測などの航海系通信系のメインマーク系の課程、潜水員、陸上警備、立ち入り検査課程などのサブマーク系課程があり、それに伴い、レーダーや大砲、魚雷などの研修用実機、艦の内部のレーダーコンソールの実機シュミレーター、潜水員教育用の深さのあるタンク状のプールなど様々な施設があります。

また攻撃系の人間はここで1級小型船舶操縦士の免状も取得します

 

正直、第一術科学校の教育は現在では時代錯誤と言われても仕方ないような教育をしているかもしれませんが、あの厳しい教育があったからこそ船乗りとしての基礎が養われたところも確かにあります。内容としては、朝、総員起こしと共にダッシュで集合、全員揃うまで、号令調整という動きは伴わなず号令を大声で叫ぶ、集合後点呼、体操。体操も大声で掛け声を出します。朝から異様だと思います。甲板掃除を実施し、ようやく朝食となります。

また、当時の学校から出る外出時の服装も厳しく、ズボンは折り目のあるもの、ジーパン、スニーカ―、コンバースなどのデッキシューズ様な靴の禁止、襟のついた服の着用、ショルダーバッグの斜め掛け禁止、リュックも学校内は背負い禁止、肩紐を二本まとめてどちらかの方に背負う、二人以上の場合は隊列を組み歩くなど色々制限がありました。

 

しかも当時の学生隊長が定年前の2等海佐でジメジメネチネチした器の小さいまさに小舅な男で、日曜日の夜など学生が帰ってくる時間に、学校内の学生が必ず通る道沿いの建物に電気を消し潜み、服装の決まりを守っているか、私語をしながら歩いてないか、隊列を組んでいるかを観察し、月曜日に教官を通してネチネチ言ってくるのです。 そんな器の男だから防大でても2等海佐で定年を迎えるのか、2等海佐までしか出世できなかったからひねくれ歪んでそういう男になったのか..昔からジメジメネチネチした男だったようでした...。

 

 

所長は2術校にも英語過程で入校していましたが、正直総員起こしから集合点呼も、体操も緩いし甲板掃除は号令だけだし凄い楽でした。人数の多い機関科の課程などは人数揃ってなくても、課程の人数を報告しやり過ごしているところもありましたね。たぶん順番で集合に出ない日を示し合わせていたのでしょう。

 

観光、名産

名産品は広島県でも有数の牡蠣の名産地でもあります。

観光は勿論、第一術科学校内を自由ではないですが事前申し込みにより見学することが出来ます。内部は現在でも、レンガ作りの幹部候補生学校や、ギリシア風建築の大講堂、様々な昔の兵器の展示などがあり、そこは昭和で時代が止まったようなノスタルジーが感じられます。正直それ以外にはないので、よほど戦史、戦跡に興味のある人には縁の薄いところかもしれませんね。広島宇品港から江田島小用港間は高速船で30分で行き来できますから。広島観光から来ようと思えば全然日帰りでも来れる場所ではありますけれども、どうでしょうか!?

 

 

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